ありがとうって、言わないぜ

　二本の足で歩く猫たちが暮らす世界。
　この世界は白い竜イージスによって守られているのだと、信じられている。
　今も昔も、変わらずに。
　たとえ、叶えられなかった願い事があったとしても。

　気まぐれな猫が多いように、イージスもまたそうなのだと猫たちは笑う。
　そんな彼らの明るい笑顔の下にはいつだって、積み重ねてきた辛い過去がある。
　彼らが今までに受けてきた優しさが、他の誰かへ接する気持ちや仕草に感じられる。

　今、ちょうど角を曲がって、灰色の石畳の上を、腕をふりふり歩いてくる猫もそうだ。

　顔の左上だけ茶色をしていて、あとは白っぽい毛並み。
　ピアスのついた左耳を、今ゴシゴシと撫でつけている青年だ。
　空色をした青い目が、この街“タルト・ルクプ”の猫たちの集い場である“ディーンの酒場”へ向けられている。
　一見、彼を見た猫たちは、いつも笑顔でふざけさえする彼の中に、辛い過去があるなんて思わない。
　……でも、タルトの街に住む猫たちは良く知っている。
　彼が昔、今の彼からは想像できないような姿で、この街にやってきた時の事を。


「腹減ったぜ」
　お腹をさすりながら、彼、リック・ゴードンは酒場へと入っていった。





−ディーンの酒場−

　キュウウと扉が音を立てた。
　入り口付近に座っていたお客の一匹が、リックを見て片手を挙げる。
　リックもまた手を挙げて、その猫に挨拶を返した。

「いらっしゃい、あらリック」
　使用済みの食器を片づけていた女の子が声を掛けてきた。
　この店の看板娘、ミリルだ。
「レッドティー頼むよ、それと“ねずみのからあげ”お願いね」
　そう言うと、リックは奥にあるカウンター席へと歩いた。
　
　夕暮れ時のディーンの酒場は、そこそこ席は埋まってはいたが静かだった。
　今日のお客たちは、どうもぼそぼそと話し合い、ちょびちょび酒を飲むのが好きな者が多いようだ。
　
　背負っていた弓矢道具一式を足もとに置きながら、リックは椅子に座った。
　ちょうどリックが座った時、ミリルが奥の部屋から現れた。
　リックの前に、コトンとレッドティー入りのグラスが置かれる。
「ありがとう」
　リックは右手でグラスを取ると、氷の入ったレッドティーを一口飲んだ。
　そんなリックを、ミリルはカウンター越しに、黒い瞳で見つめている。
「……ん？」
　グラスを置いて、リックもミリルを見た。
「夕方にリックが来るなんて、珍しいわね」
「いつ見ても、ミリルちゃんは可愛いなぁ」
　先ほどまでの締まった顔はどこへやら、リックは「でへへ」とにやけた顔でミリルを見ていた。
　ミリルはというと、「そうかしら」と言って笑っていた。
「何だか夕方のミリルちゃんって、色っぽく見えちゃうな。
俺より年下だってのに」

「こらリック、またうちの娘に手ぇ出しに来たのかぁ」
　振り返ると、エプロン姿の雄猫が立っていた。
　この店の外観と同じように、泡だった波をイメージしたフリル付きのエプロンを、彼は違和感なく着こなしている。
　この酒場の主猫、ミリルの父親だ。
　彼の口調は厳しいが、顔はというと柔和で穏やかな性格を醸し出している。
「へへへ。
ミリルに会う序（つい）でに、世界で一番旨い“ねずみのからあげ”食べられるこの店は最高だぜ主猫！　暇さえあれば俺は毎日だって来ちゃいたいくらいなんだぜ」
　リックはニヒヒとした笑顔を主猫に向けた。
　それに思わず顔が綻んでしまった主猫は、いつものように、「全くお前は」とだけぼそりと零すのだった。

　

　レッドティーを飲みながら、リックはしばらくの間ミリルと話をした。
　最近武器屋のおじさんに、可愛らしい奥さんができたという話だ。
「――いらっしゃいませ」
　話の途中、店に新しい客が入ってきた。
　リックの二つ席向こうに、その客は腰掛ける。
「とびきり強い酒を頼む」
　旅猫（クォーツ）風のその雄猫は、ミリルにそう言うと、小粋に被っていた帽子を脇へ置いた。
　リックはレッドティーを飲むふりをしながら、横目でその客を観察した。
　何だかわけありそうなお客である。
　
　その雄猫は、耳にジャラジャラと音を立てるほどのピアスをつけていた。
　注文の品を待てないのか、落ち着き無くコツコツとテーブルを叩いている。
　テーブルを叩くその指にも、耳のピアス同様、銀や緑色の石が嵌（は）め込まれた飾り物がついていた。
　黄色い毛並みに、赤みがかった茶色の縞が入った毛色は、リックの記憶にある誰かに似ている気がする。

「あっ」
　急にその猫が声を出し、リックは思わずピクリ身体を震わせた。
　まだ来てすぐだというのに、雄猫は帽子を被ると立ち上がった。
「おい、注文の酒まだきてねぇぞ」
　思わずそう言ったリックに、
「君が代わりに飲んでくれ」
　雄猫は服からイージス札を一枚、１０００キャットをテーブルに置くと――急いだ様子で店を出ていってしまった。

「あら、リックここにいたお客さんは？」
　注文品の酒を持って奥から出てきたミリルが、首を傾げてリックを見ている。
「それ、俺にくれ」
　リックはそう言って、ミリルからあの猫の酒を取った。
　薄茶をしたそのお酒は、リックの記憶の中にある、誰かのヘーゼル色の目と同じ色。
　それをグイッと一気飲みしたい衝動に駆られて、リックは思わずそれを喉に流し込んだ。

「リック！　そのお酒、強いお酒なのよ！」
　ミリルの悲鳴じみた声が耳にギィーンと響いた。
　目の前がまるで波のように揺れ、可愛いミリルの顔が歪みだす――頭を誰かに殴られたような衝撃を感じて、リックは椅子に座ったまま、仰向けにひっくり返った。
「頭が、痛い……」
　リックは頭を押さえながら、重たく感じる瞼を閉ざした。





＊＊＊

「おい、おい大丈夫か」
　誰かがリックの身体を揺すっている。
「やめてくれ、頭が、頭が痛いんだ」
　リックはそう言って、ゆっくりと目を開けた。
　耳や毛並みを優しく撫でつける森の風。
　真っ青な空と、見知らぬ雄猫の顔――それも間近だ。
「おい！」
　リックは目の前にあったその雄猫の顔を、手で思いっきり除け飛ばした。

「冗談じゃねぇぞ、可愛い女の子ならまだしも。
男の顔して俺の顔に近づくんじゃねぇ。
あぁ、びっくりした……目覚めが悪いったらありゃしない」
　リックは首を横にぶんぶん振って相手を見やった。
「こっちこそ冗談じゃない。
初対面の相手に向かって、しかも助けた恩猫だぞ」
　そう言って、その猫は立ち上がった。
　歳は１５、６だろうか、きっとリックより年上だろう。
　その猫は不機嫌そうに目を細めて言った。
「俺の名前は“ジッポ・ヘッジス”。
お前名前、なんて言うんだよ」
「しっぽへんです？　……聞いたことねぇな」
「ジッポ・ヘッジスだ！　ヘッジス！
頭打ってどうかしたか？　ったく、それよりお前の名前は何なんだよ」
　そう言いながら、ジッポは煩（わずら）わしそうに、ピアスだらけの右耳の後ろを掻く。
「俺はリック・ゴードン。
この街“グリント・スコーン”いちイイ男だ、覚えておけ」
「鼻血出しながら言う言葉じゃないと思うぜ、リック」
「鼻血だって！？」
　驚いて鼻の下を擦（こす）るリックに、クスリと嫌みな笑み浮かべて、ジッポはポケットからシワシワの布きれを丸めて投げた。
　それを受け取ったリックは、顔を顰（しか）めた。
「これ、汚くねぇか」
「まぁね、俺の愛用品だもの」
　リックはぶつふつ言いつつも、服を探ったがハンカチがなかったので、渋々ジッポの投げた布きれを使う事にした。


　ジッポはリックに近づくと、その場に腰を下ろした。
　リックは鼻を指で摘みながら言った。
「見ねぇかぉだよな、じんぃりが？」
「あぁ、今日ここに来たんだ。
ちっぽけでつまらなさそうな街だけど、女の子は可愛いし、まぁいっかなぁって」
　ジッポはそう言うと、背負っていた物を地面に置いた。
　弓と矢筒だ。
「弓、使えるか？」
　ジッポが聞く。
　何だか挑戦的な目で、ジッポはリックを見つめていた。
　リックは先ほどからのジッポの態度が、無性に気にくわなかった。
　どうにかこいつを負かしてやりたい気分が、腹の底からこみ上げる。
「ああ使えるぜ」
　三日前に親父に教わったばかりなのに、さも上手いかのような口振りで答えた。

「リック、歳は幾つだ」
　突然歳を聞かれて、リックはどもってしまった。
「１２」
「俺もだ」
「うそっ！？」
「……嘘、本当は１５歳」
　ジッポはきゃっきゃと笑った。
　まるで猿みたいな笑い声だ。
　笑うと、ジッポは先ほどまでとは違った子供っぽい表情になった。
　おとなぶっていただけだと知って、不思議とリックはジッポに対しての嫌悪感が少しなくなった。
　本当は見かけだけで、子供っぽいやつなのかもしれない。


「明日、またここで会おうぜ」
　ジッポはそう言うと立ち上がった。
　いつからここにいたのかわからないが、気がつけばもう夕暮れ時だった。
「家帰ったら、頭冷やせよ。
お前急に木の上から落ちてきたんだから。
……ゴロゴロと坂道を転がっているのを、俺が止めてやったんだぜ」
　ジッポはヘーゼル色の目でリックを見下ろした。
　狩りに適した軽装の服。
　全体的に黄色い毛色だが、赤茶色の縞が入った毛並み。
　両耳には幾つもピアスがついていて、良い猫と形容するのにはほど遠い容姿をしていた。
　その時になって、リックはジッポの姿をまじまじと見た気がする。
　隣に座っていた時は圧迫感なんてものは無かったのに、こうしてみると、自分より年上の猫が醸し出すオーラみたいなものを感じた。
「あ、これ」
　そう言って、急に恐れた様子になったリックは、鼻をぬすくっていた布きれをジッポに突き渡した。
「あぁそうだったな、でもいいや、明日渡してくれよ」
　ジッポは受け取らず、布きれを持ったままのリックの手を押し戻した。
　そして、口を開こうとしたリックを制するように言う。
「お礼は明日でいいぜ……じゃあな、また明日だ」
　二本指を額にあて、敬礼のようなものをリックに寄越すと、ジッポは早足にその場を去っていった。



　ジッポが去った後、リックはとぼとぼと家へと歩き出した。
　ぼんやりとしていたせいか、坂で転んでまた鼻血を出してしまった。
　手に持っていた汚らしいジッポの布きれで鼻を拭きながら、リックは足もとに気を付けながら家路へと向かった。

　家の前まで来ると、父親がパイプをふかしているのが見えた。
「ただいま」
　夕日を背に、父親は家の前でいつものようにお手製の木椅子に座って黄昏れている。
「まぁそこに座れよ息子、夕食はまだだ」
「今日の夕ご飯何なの？」
　そう言いながら、リックは父親の隣にあった、背もたれのない丸椅子に腰掛けた。
「さぁ、何だったかな、当ててみな」
「うーん」

　リックは鼻をひくひくと動かしてみた。
　よくよく動かしてみたが、煙たいにおいが邪魔をして、おいしそうな薫りがよくわからない。

「親父、パイプふかすのやめてくれよ。
ちっともおいしいにおいがしないじゃん」
　睨め付けてきた息子にすまんすまんと言いながら、耳を撫でつけ、父親はパイプを口から離した。


　鼻に甘辛い食欲をそそる薫りがする。
　何か焼いたにおいもする、これは、きっと鳥肉を焼いているにおいだ。
　ほんのりにおうミルクのようなにおいは、昨日隣のおばさんにもらったクリームソースに違いない。
　――香ばしいパイ生地のにおいもしている。


「今日は甘辛い味付け焼き鳥だ。
それと、クリームソースを使ったパイ料理だ！」
　そう言ったリックの側から、ツーンとほろ酔いしそうなにおいがした。
　横を見ると、
「そして俺は、蜂蜜酒（ミード）を飲むわけだ」
　茎の長いハーブを口にくわえて親父が酒を飲んでいた。
　グラスの中のお酒は、薄くなった父親の白い毛色から見える皮膚のように、夕日色に染まっていた。


「夕ご飯できたわよ」
　入り口の戸が開いて、リックの目と同じ色をした青い目の雌猫が顔を出した。
「母さん、今日“しっぽへんだよ”ってヤツに会ったんだ。
新しく街に来た猫みたい」
「ヘッジスさんね。
あそこのお子さん、ジッポ・ヘッジスって名前の、あなたと歳の近い男の子がいるって言ってたわ」
「ねぇ母さん、今日は甘辛い焼き鳥でしょ」
「そうよリック、それに隣のおばさんから頂いたクリームソースを使ったパイ料理もあるわよ」
「わーい、当たった当たった」
　リックは喜び勇んで家の中へと入っていった。


　夕食時、リックは母親からジッポの家族について聞かされた。
　ジッポは父親と２匹家族で、街を点々として暮らしているそうだ。
　この近くの街に魔物が出るようになったので、どうも退治屋としてグリント・スコーンの街に来たらしい。



「明日、ジッポと森の側で会う約束してるんだ」
「気を付けてちょうだいよ。
暗くなる前に、帰ってきなさいね」
　ベッドに入り込んだリックにブランケットをかけると、「おやすみなさい」と言い、母親はリックの額にキスをした。





　窓から注ぐ眩しい朝の光で、リックは目を覚ました。　
　朝食にベーコンエッグを挟んだパンを頬張ると、外へ出、家の隣にある小屋に向かった。
　小屋を覗くと、父親と近所のおじさんが、切り出した木材を作業場の方へ運んでいる最中だった。
　ふたりは暇を見つけては、時々注文を受け、お得意の木製家具を作るのだ。
　普段は狩りや農作業をしているのだが――
「おはよう……今日は何作るの？」
「おはようリック。
テーブルだ、それと背もたれつきの椅子。
昨日頼まれたんでね」
　おじさんはそう言って、「リック、ほっぺたにパンくずがついてるぞ」と言った。
　リックは頬をゴシゴシ擦って、そのついでに手を良く動かして顔を洗った。
「川の水で洗った方がさっぱりしないか？　朝からどこへ行く我が息子」
　リックの父親は、ちょっとした用で外へ行くというだけでも、小綺麗にするのが好きだった。
　朝から川の水で丁寧に毛繕いしたのだろう。
　隣のおじさんは寝癖を残した毛並みだというのに、今日もそんな具合で、親父は少しばかりイイ男に見えていた。
　今日は胸ポケットに、青地に白い水玉模様のハンカチを入れている。
「教えてやったろう、身だしなみは男前を作るってな。
ゴードン家の家訓だぞ、リック」
「はぁい」
　毎朝されるこのやりとりを適当にあしらうと、リックは小屋の壁に掛けてあった弓と、足もとに立てかけてあった矢筒を背負った。

「行ってきまぁす」
「あぁ行って来いっ」
　ふたりに手を振って、リックは小屋を後にした。
　昨日ジッポと約束した、森の側の坂道まで駆けだした。
　時折慣れない荷物に躓きそうになりながらも、リックは何とか無事に約束の場所に辿り着いた。



　時間が早かったのか、ジッポはまだ来ていなかった。
　リックはその場に座り込んで待っていようかと思ったが、耳に川のせせらぎが聞こえて、
「川で顔でも洗っておくか」
　と呟くと、森を少し入ったところにある川へと向かった。





−森の中の小川−

　川の水は、生い茂った木々の合間から注ぐ朝の光に、てらてらと輝いていた。
　弓と矢筒を川の側の茂みに置くと、川水の中に、リックはそっと足を入れた。
　水深はリックの膝下くらいまでしかなく、水は緩やかに流れている。
　
「きっと君は綺麗な猫に成長するだろうなぁ」

　突然妙な声音がリックの耳に聞こえた。

「そうかしら……あなただって、素敵な猫になるわ」

　今度は声の高い雌猫の声だった。
　リックはそのどちらの声にも聞き覚えがあるように感じた。
　川の中をずぶりずぶりと歩きながら、声のする方へ近づいてみた。
　すると、
「俺、茶色の混じった毛並み、好きだぜ」
　そう言って、雌猫の毛並みを撫でているジッポを目撃した。
　雌猫が誰なのかは、木が邪魔をしてこちらからはよく見えない。
「――あなたって、見かけに寄らず優しいのね」
　ジッポの手に雌猫は自分の手を添えた。
　頬にそれらの手を当て――雌猫の顔がその肩越しにちらりと見えた。

「あぁあーっ！　街一美猫のエミリーっ！」
　思わずリックは大声で叫んだ。
　２匹の猫はその声に振り返る。
　エミリーは頬に手を当てたまま、「あら、リック、朝から小川で水浴び？」と微笑んだ。
「あ、あ、朝っぱらからこんなところで何してやがるジッポ！」
「何って……見て分からないか？」
　あくまで惚けるつもりらしい。
　ジッポはこの状況を楽しむかのような表情を浮かべ、リックを見ている。
　少し高い位置に２匹がいるせいなのかもしれないが、リックは見下ろされている気分になった。
　腸（はらわた）が煮えくり返りそうだ。
「選（よ）りに選って、街一美猫のエミリーちゃんに手ぇ出しやがって！
エミリーちゃんもエミリーちゃんだ。
どうしてジッポなんかに……」
　リックは両手を握りしめて、エミリーを鋭い眼差しで見た。
「そんなに怖い顔をしないでリック。
私、リックも素敵だと思うわ。
でも、ジッポにはなんて言うか……リックには無い、素敵なところがあるの。
彼、外見は悪そうで、怖くて近寄りがたそうだけど、とっても優しいのよ。
それに、まるで詩猫（しじん）みたいな言葉を耳元で囁いてくれるの」
　そう言って、エミリーは「あら私ったら」と恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
　満更でもなさそうなエミリーの様子に、リックは苛々（いらいら）しながら叫んだ。
「エミリーちゃん、そいつに騙されてるんだよ！
俺はそいつの口から詩のような台詞なんて聞いたことがねぇっ。
ジッポ・ヘッジスはそんなヤツじゃないよ、すごく嫌なヤツなんだってば！！」

「何でお前の耳元に囁かなきゃなんねぇんだよ」
　ジッポはリックの様子に呆れた顔をし、側の木から葉っぱを毟（むし）り始めた。

　そのうち、ジッポはリックの叫び声に飽きてきたのか、
「なぁ、じゃあこうしようじゃねぇかリック。
俺たちはここで弓勝負をしようとしてたんだ。
……勝った方がエミリーちゃんの恋猫になる。
どうだ、俺とやるか？」
　と両手を前で組みながら言い放った。
「ああ、いいじゃないか」
　リックは両手を腰にやって、仁王立ちでジッポを睨む。
「決まりだ、先に森の中で獲物を捕まえた方の勝ちだからな」
　２匹の猫はお互い視線をぶつけ合った。

「ふたりの男が私のために戦うのね。
私って、罪な女だわ……」
　エミリーは両手を胸に当て、空を見上げて目を輝かせていた。



　

　勝負の結果は、すぐに決まった。
　言わずもがな、
「俺の勝ちだ」
　ジッポに勝敗が上がった。
　若くて大きな兎が、ジッポの肩に背負われている。
「嘘だ、ジッポお前ずるしただろう！」
　喚くリックを見ながら、ジッポは空いた片手をエミリーの腰に回す。
「往生際が悪いぞリック・ゴードン。
潔くなくっちゃあ、格好悪いぜ」
「リックはとても頑張ってたわ、ただ、ジッポの方が優れていたのよ」
　エミリーは哀れそうにリックを見つめた。
「あぁ、エミリーちゃん……」
　リックは己の不甲斐なさに打ち拉（ひし）がれた。



　エミリーが帰っていった後、ジッポとリックは、弓矢の手入れや矢作りをした。
「すまんなぁ、リック」
　さもすまなさそうな顔をして、ジッポが言った。
「心にも無い癖に」
　リックはぷうっとふくれっ面をして、こちらを見ているジッポから視線を逸らす。
「悪かったよ、ずるした事」
　ジッポのその言葉に、リックは作業をしていて手を止めた。
「へ！？　今何て言ったっ」
「だから、ずるい事して悪かったって言ったんだよ。
俺とお前じゃあレベルが違いすぎた。
わかっててお前と勝負したんだ、だからずるかったって言ってるんだよ」
「……何だよそれ」
　リックはジッポの嫌みに一つため息をついた。
　ジッポは、そんなリックにお尻を引きずりながら近づいてきた。
「来るなよ、何だよもう」
　いじっていた弓を持ったまま、リックはジッポに背を向けた。
　背後から、ジッポがこちらに話しかけてくる。
「俺たち友達だろう？」
「俺はそう思ってないけど」
「何言ってんだ、俺みたいな面のイイ友達ができて嬉しいだろう」
　急にジッポの左腕がリックの首に巻き付いた。
「な、何しやがる、く、苦しいじゃねぇか」
　藻掻くリックに、今度はジッポの右腕が伸びてきた。
「見て見ろ、これ」
　ジッポはリックの首を締め付けていた左腕に一層力を込めてきた。
　リックはそれを振り解こうと両手でその左腕を引っ掻く。

　その最中（さなか）、リックの目に、不思議な輝きが映った。
　ジッポの右腕に、まるで裂けた傷のようなものがあり、その傷口には緑色の石が覗いている。

「これ、竜石って言うんだぜ。
竜石を持っていると不思議な力が使えるんだ。
そういう俺みたいなやつの事を、“竜石使い”って言うんだ。
……俺がずるしたって言ったのは、この事を秘密にしてたからさ」
　リックは息苦しさを忘れて、ジッポの右腕を見入った。
　ジッポの毛に少し埋もれながらも、緑色の石は荒んだ輝きを放って、その存在をリックに見せ占めているようだった。

　よくよく見ようと、ジッポの右腕に近づいた。
　その時だ。
　リックは緑色の竜石の中に、こちらを見つめるものを見た。
「う、うわぁ」
　緑石の中で、竜が落ち着きなく動き回っている。
　竜は石の中でぐるぐる旋回すると、急にリックの方へと大きな口を開けて迫ってきた。
「ぎゃあああーっ！」
　リックは驚きのあまり絶叫した。
　そうして、後ろ向けにひっくり返った。
　
「お、おいリック」
　ジッポは白目をむいているリックの頬を叩いた。
「……参ったな、気絶してやがる」
　ピアスだらけの右耳の後ろを掻きながら、「ちょっとリック坊やには刺激が強かったかしら」とジッポは苦笑した。





「ぅうーん……あれっ？」
　リックは目を覚ました。
　目を擦りながら、正面に見えるものを凝視する――見慣れた自分の部屋の天井が見える。

「あらリック、起きたのね」
　母親の声に、リックはベッドから起きあがった。
「ジッポ君がここまで運んで下さったのよ。
優しい子ね、それに、行儀の良い男の子だったわ」
「嘘だ、あんなやつ」
「会った時にちゃんとお礼を言うのよリック。
飲み物ここに置いておくから」
　母親はグラスに入ったスウィートティをテーブルに置いた。
「それにしてもリック。
あなたいつ耳にピアスを空けたの？
ジッポ君を真似したいのはわかるけど、まだあなたは子供なんだから」
「へっ？」
「夕ご飯できてるから、食べたくなったら起きてきなさい」
　そう言って、母親は部屋を出ていった。
　リックは母親の残した言葉に、ふと疑問を感じた。
「耳に、ピアス？　……え、ええーっ！？」
　ベッドから飛び出すと、リックは机の引き出しから鏡を引っ張り出した。

「あーっ！　お、俺の左耳に穴が空いてるーっ！？
何で、何で……」
　驚きのあまり、リックはしばらく沈黙した。
　左耳に、ジッポが耳につけていたのと同じようなピアスが輝いている。
　リックは腹立たしくなって、ピアスを引っ張った。
　耳を取ってしまいたくってしょうがない。
「ジッポの、あほぉ」
　左耳から少し、血が出ていた。
　リックはむっつり顔で「こんなものっ」と叫ぶと、耳から乱暴にピアスを取り払った。


「あらリック、もう食べる？」
　野イチゴのジャムを作っていた母親が、鍋に火をかけながらこちらを見つめていた。
「母さん、ジッポの家って、森の近くにある空き家になってたところ？」
「ええそうよ、そう仰ってたわ」
　それを聞くなり、リックは早足で家を出ていこうとした。
「息子よ、夕食は食べないのか」
　問うてきた父親に、「帰ったら食べる」と言うと、リックは家を飛び出した。





　辺りはすっかり日が落ちていた。
　空には蝙蝠（こうもり）が飛んでいる。
　リックはジッポの家へと一目散に駆けていった。

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